「ホームにて」と「智恵子抄」
「智恵子は、東京には本当の空がない、という」
有名な一節だ。
「そうか、なるほど」としみじみ感じたのは、福島に移住してしばらく経ってから、バスで帰省したとき。那須の高原から関東平野に下った瞬間。山並みがグンと遠くなり、パっと空が開けた。「あ、帰ってきた」と思うと同時に思い出したのが、智恵子抄の、かの一節…。ワタクシの心は、智恵子さんの思いと真逆の感激を覚えたのである(でも、これ、どうもリアルタイムでこのブログに書いたような記憶がなくもない。お暇があったら見てみて…)。
「ふるさと」って、何なんだろう。プラットホームの果てか、汽車の窓ガラスの果てか……。
北海道の、音威子府という小さな村に、縁があって、都合二ヵ月ばかり暮らしたことがある。北海道といえば、どこまでも広がるような畑や牧草地と、そしてその上の青空、というイメージかもしれないけれど、この音威子府村は、天塩川中流の小さな盆地。だから、空は、福島や二本松と同じように、四方を山に囲まれている。
世話になった親方が云っていたっけ。「内地の人はみんな、音威子府に来ると『帰ってきたような気がする』って云うんだ」と。
それを聞いたとき、判るような気もしなくはなかったけれど、半分他人事のような気がした。
それはそうだ。だって自分は、智恵子さんと“真逆”なんだもの。
でも、福島、なんか、落ち着くんだよね。ナンデダロ〜♪
思い返せば、ワタクシの「本当の空」は、住宅団地の“山”に囲まれた「空」だったんだ。
そして、ベランダから、富士山が綺麗に見えていた。
いま、うちのベランダに立てば、右手には吾妻小富士を臨む。目の前の地面に目をやれば、子供たちの遊び場。左手の霊山へと続く山は、その頃の団地の北側に茂っていた雑木林。ちょっと歩いて土手を越えれば、川の流れ。
まあよくぞ、幼きときの原風景にそっくりなところに来たもんだ。
この年末年始、JRが発売した「ふるさと行きの乗車券」は、残念ながらワタクシには使えない設定だったけど…。
気が付いたら、普段から「ふるさと」にドップリ浸かって暮らしてる。
福島、いいべした!
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