緑帯の免許証を持っている人には記憶に新しいでしょうが……、思えば、もうまる24年、ハンドル握っているワタクシ。生徒が3人乗った内、他の生徒さんの運転でビビッた覚えがないから、恐らく一番手でハンドル握って、何とか問題なく終われたので、もうすっかり気が抜けて、あとは後席で“アヘ〜ッ”としていたのでしょう。
何しろ、試験ルートが東京の環状8号、用賀インター近くという、今でもあんまりクルマで走りたくない所。場所がそこだったのと、3人同時検定だったのと、一発でクリアしたことしか覚えてない。試験官の顔も、同乗した生徒の顔もサッパリ……。
なんて書いていたら、不思議なもので、その時の記憶がよみがえってきた。教習所から、ワタクシの運転で「試験ルート」へ向かったのでありました。ワタクシの通っていた教習所は、世田谷の小さな川っ縁にあって、そこから「環8」に出るのに、急な上り坂(コンクリート舗装で、サティの屋上へ上がるスロープのごとく丸印がついてるの)を登るのです。しかも登り切ったところが「一時停止の十字路」という、すご〜くイヤな立地……。
その交差点の発進で、ものの見事にエンスト! そりゃそうです、そもそも4名乗車が、初体験……。
「検定中だったら、即中止だけどな!」と試験官の先生に笑われて、試験ルートへ向かったのでした……。
そうそう、こんなことを書きたかったわけじゃなかった(苦笑)。
明日は「信夫の麓寄席」、“二番煎じ”の本番! というのに、相変わらず“猪(豚)鍋”“田楽”“煎じ薬”の「実地」にハマってしまって、噺の稽古など、すっかりどこかに行っているワタクシ……。
鍋の支度を整えつつ、考える。
「そういえば、“二番煎じ”の猪鍋、肉と葱しか入ってないよな〜。なんでだろ〜♪」
「♪ソレはね!」
まずは……。今、鍋物には欠かせない「白菜」。これが、江戸時代には、なかったんです!
白菜は、明治になってから中国または朝鮮半島から入ってきた野菜。江戸時代には、なかったんです。
「じゃぁ、お豆腐は? 昆布は?」
江戸では「昆布」が普及してなかったんですね。主産地が北海道。当時は「日本海」が主な交易ルートだから、昆布が江戸へ来るのに関西を経由してた。……そんなところから、ウドンやソバの汁も違ってくるのです。“時そば”で「ダシ、奢ったね、カツブシ!」と言いますけど、あれこそ江戸の食文化なんですな。
そして江戸っ子は、自らがごった煮のようなところで暮らしているがゆえに「ごった煮」的な食い物を好まない。そりゃそうで「食い物」は自分に不足しているものを補うわけですから……。
亡きタンドーオヤブンが好んだ“池波正太郎の小鍋立て”。鍋の具はたったふたつか、多くて三つ。江戸っ子はこれを「粋」とみた。それ以上混ぜると素材の味がわからなくなっちゃうし。
“二番煎じ”の“猪鍋”も、そうなのかな。でも、それだけともいえないようで……。
当時「肉」は、数少ない専門店に行かないと買えませんでした。その代わり、店を構えてて何でも置いてる「八百屋」も少なかった……。野菜や豆腐は「棒手振りの商人」が、主に午前中、売りに来る。
夕方、肉を買いに行ったはいいけど……。合わせる野菜・調味料なんて、そこいらじゃ買えないのです。
きっと、肉屋(当時の言い方なら“ももんじ屋”)で、葱と味噌はあらかじめ仕入れてセット販売してたんでしょう。今でも、コンビニの冷凍庫に、アルミ泊の鍋付きのやつがあるように……。
それは、まぁ、いい。
明日のワタクシの“二番煎じ”、稽古不足で、恐らく聴くに耐えないことでしょう。それは今更しょうがない(もう、居直るしかない?)。
でもね。色々、背景はあるんですよ。
今夜の「鍋」、おいしくあがりました。
実地だけはとりあえず「卒検」クリア、だな(苦笑)。
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