唱和
一つのうたをみんなでうたう、一つのことばをみんなで唱える。
これには、その場を一つにまとめる効果がある。
学校の校歌、応援歌。地域民謡。社訓、はたまた春歌(笑)
ワタクシの職場の週明けの全体朝礼で、社訓(経営理念)唱和が始まったのは一昨年からである。唱和のリーダーは、社員が週替わりで務める。
しかし、にわかに決まったもののせいなのか、そういう経験を誰もしたことがないからなのか、上手くリーダーを務められる者がない。第一、きっかけがみんなまずい。これでは「唱和させられる」雰囲気になってしまい、その場の一体感どころか、むしろ逆効果。
実は、虎視眈眈と自分の番を待っていた。そして……。
まぁ、それまでにない「リーダーぶり」だった、のだろう。
明くる昨年の正月の顔合わせで、社長が「今後はこの形で唱和をリードするように」と説明したのは、ほぼワタクシのやった通りだった。
唱和後半、リーダーの「その為には、ひとぉつ!」というセリフを聞く度、ワタクシ密かに「してやったり」と、ほくそ笑んでいる。
現在は毎朝唱和しているかどうだか……20年前の「湘南マツダ社訓」の唱和法が、今、福島の某印刷会社に受け継がれている……ヘナチョコ社員のデタラメ口伝で……。
あ、そうだ、今はなき米穀商社「いちかわアクト」の「スリーアクト」なんてのもあったっけ。中身は忘れちゃったけど……。
もっとたどれば「農大・大根踊り」、小中高の校歌、幼稚園での「アーメン」、母方親類法事の「お題目」、父方親類法事の「お念仏」、両親の所属していた合唱団の演奏会のお開きに必ず客席と唱和した「埴生の宿」……。
ワタクシは左右どちらでもない“無党派”を自任しているけれど、日本人であり、日本が好きならば「君が代」は尊ぶべきと考える。確かに過去には忌まわしいことがあった。しかし、君が代をうたいながら、その忌まわしき過去にも思いを馳せつつ、これから我々はなにができるのか、なにをなすべきなのか考えることが大事なのではないだろうか。
ひとりひとりは“さざれ石”。まとまって“巌”となる。巌になりたてはまだ熱を持っていて、周りに被害を与えたりする。しかし、時が経ち、十分冷却されれば、いつか取りついてくる苔をうるさがらずに養う寛容さを備えるようになる。
こういう解釈、どうだろう。
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