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2011年11月27日 (日)

ダンシがシンダ

談志師匠が亡くなった。その訃報を耳にしたのは、仙台にいた時。

実はワタクシ、談志師匠には、あまり馴染みがない。おまけに、志ん朝師匠にも、馴染みが薄い。

これは巡り合わせとしか言い様がないのだが……ワタクシの若き少年時代、落語にハマっていた数年間に、接点が少なかったのだ。


恐らく、両師匠をはじめとする「テレビタレントとして爆発的に売れた落語家」が、一斉に“ライブ”“独演会”へ力を入れはじめたのが、この頃で……。同時に、ワタクシの当時の落語との接点は、専らラジオだった。
だから約6年に亘る「エアチェック」カセットが、段ボール一箱あるけれど……志ん朝師匠の声はただ4本……談志師匠にいたっては、2本あるかないか……。


そしてワタクシ、定席の「寄席」に足を運ばないまま、落語から20年遠ざかっちゃった。
初めて「新宿末広」に行ったのは、はるか後、タンドーオヤジが福島へ帰った年の明けた、初席だった……。

ちょうどワタクシが落語にはまっていた少年時代、ワタクシの街に住んでいた三遊亭若馬師匠が、わが街の市民センターで寄席を始めた。若馬師匠は芸術協会所属だから、いらしてくださったのは、芸協のお師匠さんばかり……とはいっても、そうそうたる顔触れ。米丸師匠、柳昇師匠、文治師匠、夢楽師匠、円右師匠、小南師匠、歌丸師匠、笑三師匠、遊三師匠……移籍前の文朝師匠、先代の柳好師匠、柳橋師匠、そして漫才の千代若・千代菊師匠……、etc。

恐らく柳昇師匠と千代若千代菊師匠がまだ60ちょい過ぎくらい、他の師匠はまだ40〜50代……。アブラが程よく抜けて、しかも枯れすぎない、お師匠さんたちの絶妙の時代の「芸」を、ライブで受け取っちゃった……。

ナマの“志ん朝”“談志”の両師匠を観ることなく、ここまできたけれど、それは、巡り合わせだからしょうがない。その代わり、ワタクシの中には、それに劣らない“宝物”が(他の人にはどこがいいのかわからないかもしれないけれど)、たくさんある。

先日、山形で「自分の噺は何故それを選んだか」、意識するべきだと教わった。そして、仙台では「噺家は誰が好きなの?」と、質問責めに遭った。

特定の「誰」が一番好きだ、というお師匠さんは、ワタクシにはない。でもやっぱり、若い頃馴染んだ“芸協”のお師匠さん達にシンパシーが、ある。

しかし……そんなことを、ここ数日思っていて……ある結論に達して、ワタクシは総て納得がいった。


ワタクシは「タンドーのオッサン」の弟子、だったのだ。

「ネオライフ亭」に入門して、お茶汲みから始まり、ある時は離れ、ある時はくっついて、部下として、秘書みたいなこともしたし、酒も何度となく酌み交わしたし……挙げ句の果て、福島へ、ノコノコ拉致られるし(自身は当時、まさかそんなことにはならないだろうと思っていたのだが、周りの連中はオッサンが福島へ帰って来たとき“あ〜‘卓’の奴め、きっとオッサンに附いて福島へ行くんだろう”と、早くから予感したという。まぁ、そういうものだ……)。そんな付き合いが、かれこれ20年。

オッサンと、談志師匠。メチャクチャぶり、わがままぶり、反面、周りへの気配りがあり(これが、往々に通じなかったり)、カッコつけるのが好きだったり……。共通点が、多々、思い浮かぶ。

それはそれとして……。
ワタクシは「タンドーのオッサンの弟子である」と、今、はっきり自覚するに至った。「塾の講師は“芸人”だ!」が持論だったし、実際、講義=噺の稽古もつけてくれた。

ちょうど3年前。オッサン、モトイ、師匠に、塾を辞めさせてもらいたい旨と、落語を再開することを話しに行ったときのこと。師匠、「そうか……オレもやりたい落語があるんだよな」と云った。師匠のことだから、古典ではないだろう。自らの創作に違いない。「じゃ、それ、こんどぜひ、聴かせてください!」と、頼んだのだけど……。

オッサン、モトイ、師匠は、この震災の2年前、なにをどう予知したのか、こともあろうに「あの世」へ事前に避難しちゃって……。


「師匠の落語」は、とうとう、聴けなかった。

ワタクシに影響をくださった、数々の師匠に……献杯!

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