今「ササニシキ」が、んまい!
ワタクシが学校を出て、社会人になったのは、ちょうど四半世紀前になる。
最初に勤めたのは、お米の販売会社であった。
「食糧管理法」という、戦時中に成立した法律が、形骸化していたものの、未だ生きていた。その隙間をかいくぐって、その会社は“日本一の米専門商社”になっていた。口の悪い人に云わせれば“日本一のヤミ米屋(苦笑)”である。
当時、日本人の大部分に「美味い米」として知られていた、二大巨頭があった。それは“コシヒカリ”と“ササニシキ”。
“コシヒカリ”は、今、原発再稼動問題で揺れにゆれている福井県で産声を上げた。“コシヒカリ”といえば新潟、中でも魚沼という評価は、今もって動かないんだけど、出身は福井なのだ。“コシ”は越でも、後ろじゃなくて、前のほう。当時のワタクシ“越後”の“コシ”と思い込んでいて、販売店さんに提供したチラシに、そう書いちゃった。苦い思い出がある……。
一方の、ササニシキ。
これも今でも“宮城県”が本場というのは、変わらないんだけど……
ある時期から、突如、ササニシキは“二大巨頭”から転落してしまった。
今、30歳以上の人なら覚えているだろう、日本中の店からお米が消えた、あの秋を。
あの冷夏で、もっとも打撃を受けたのが“ササニシキ”だった……
あれから25年。
宮城と並ぶササニシキ産地だった山形は、その前から独自品種・ブランドの育成が盛んだ。また、意表をついたネーミングセンスがいい。「はえぬき」「どまんなか」、そして最近の「つや姫」。
同じくササニシキ産地だった、わが福島は……既にその頃コシヒカリに切り替わりつつあった。
「ミルキークイーン」が、ちょんの間話題を誘ったけれど凡打だったから、満を持して問うたのが「天のつぶ」。ところがなんとしたことか、その流通開始直後にあの忌まわしき原発事故……。新ブランドどころじゃなくなってしまった……
ところで、ササニシキ。
わがタンドーオヤブン。なにげに会津の田舎に田圃などあって、ワタクシに現金給与が出せなかった一時期、玄米の現物支給をずいぶんもらった。それで食いつなげたのはもちろんありがたかったけど、なんといっても、混ぜ物のない、一枚の田圃から取れたコシヒカリ。そのお米がまた、じつに美味しかったのである。
これをワタクシ独りで食べてしまうのは、もったいない。コイン精米で精白して、トーキョーの実家へ送ったりしたものだ。
タンドーさんが他界したその年だか、あるいはもう一年前か……年末に、米5キロ担いで帰省した。
正月は一晩、悪友Iくんの家へ押し掛けて、呑み明かす慣わしだ。
そこでIくんに「お米を担いで来たんだ」と云ったら
「じゃあ“卓”さん、代わりのお米、持って帰る?」
という。
Iくんの父方の田舎が宮城の登米で、いつもそこの“ササニシキ”を食べているそうな。
担いできたのと同じコシヒカリだったら謝絶したところだけど、ササニシキだというので、重さをいとわず福島まで担いで帰ったっけ。
これが!
素敵だったんですね!
コシヒカリとササニシキの一番の違いは……
“コシヒカリ=硬質”“ササニシキ=軟質”。
コシヒカリ(のみならず、今、お米の品種を付けて売られているうちの、9割方)のモチモチ感、存在を主張する味も、決して悪くはないんだけど……
ササニシキの……ふんわりとほぐれて、後に残る優しい甘味……。どこか心の奥底をくすぐるような、懐かしい味わいに、ワタクシはすっかり魅せられてしまった。
しかし……。ササニシキ、今、滅多に売ってないんだな、これが。
でもね。
ワタクシが月に一回は足を向ける、福島市内・某施設の、一階食品売場。
嬉しいことに、ここは定番でササニシキを置いてくれている。しかも、貴重な県内“会津産”!
「日本中からお米が消えた秋」以来、作り手が激減してしまったササニシキ。でも、それを今でも守ってくれている人がいる。ササニシキを守るために費やす、とてつもない手間を忍びながら。
ササニシキと、栽培農家の皆様へ、エールを送ります。
フレ〜! フレ〜!
サ〜サ〜ニ〜シ〜キ〜!
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