幼い頃に刷り込まれた習慣というのは恐ろしい。
アタシには、どうしても「お彼岸=墓参り」なのである。
もっとも春彼岸は、仕事がムチャクチャ忙しいのと、当地福島の気候がまだ厳しいために、暢気に墓参りに出かける気にならない。
そこへ行くと秋彼岸は、ソコソコ気候も悪くないし、なんか「墓参りしないとマズイな〜」という気分になるのである。
お中日の22日、天気は生憎だったけど。
例によって、西会津のオヤブンのお墓に。
小雨がパラつき始めたんで、草むしりがお座なりな上に、植木の剪定をやめちゃった。お墓の皆さん、ゴメンナサイ!!
次いでは、猪苗代の土津っつぁま。
大鳥居が修復工事中でした。
正之公の墓所・奥の院に、参拝したら。
側に猪苗代町が建てた情報板が。
五年前の大地震で、正之公の塚天辺の“鎮め石”が、ひどく損傷してしまった。それを直すの、まぁ大変だったんだぞい!! てな内容だった。
土津っつぁまのお墓が大変だったのは、アタシも実見している。
塚の前に建ってる灯籠が倒れてた。まさか鎮め石までそんなになってたとは……。
当時、奥の院の賽銭箱に、普段のアタシならゼッタイ出さない大玉を入れてきた。灯籠と鎮め石の復原に僅かでも役立ったならば、アタシは嬉しく思う。
さて。ここから先。
またしても“鉄バナ”。しかも、昔ばなしだ〜(笑)!
興味のあるかただけ、お読みください。
アタシの実家は、西武池袋線の「清瀬」。
そして、アタシの祖父、金次郎爺さんの眠るのが、千葉の「市川霊園」。
お彼岸の墓参りとなると、ものすごく遠出するような気がしたものだ。
初っ端の記憶は、池袋から丸ノ内線に乗り、大手町で東西線に乗り換える……
今の景色からは信じがたいけど、東西線の高架を走る車窓から、海が見えた(これホント!!)。
コドモを飽きさせるのはマズイと思ったのかどうだか判らないが、帰りは黄色い総武線の電車で、秋葉原や新宿に戻ってきて、山手線で池袋へ向かったものだった。
手元の資料によれば、総武線の東京駅乗り入れが始まったのが昭和47年夏。
その秋のお彼岸。真新しい113系電車のクロスシートに掛けて、ワクワクしているアタシ(と、その家族)がいた。母は末弟を身籠っていた頃だから、そこには居なかったかも。もちろん「現・千葉県民」の末弟も。
昭和53年。武蔵野線の新松戸〜西船橋間、開通。
以来、我が家は「お彼岸」に都心を経由することがなくなった。
市川霊園の最寄り駅「市川大野」から、30分ほど田園地帯の散歩を楽しむのが恒例だったけど。
長らくクルマの無かった我が家にも、昭和62年に、いすゞ・ジェミニ(街中でアクロバット走行するCMで人気が出たアレ)がやってきて。
平成元年にアタシが実家をオン出て“ひたすら電車とバスだけで出かける家族”は、恐らく我が国一円でも、終焉を迎えたのである。
きょうだい、いとこが集結し、手料理を持ち寄って、盛り上がったお彼岸の墓参り。
ひとり、ふたりと、墓石の下の人になり。
ほぼ無欠席だった母も80の坂を越え、この秋はお参りを休むと云った。
会津の、オヤブンの墓地。
いつの間に建ったのか、見慣れない、四角い建物が……
共同納骨堂だった。
この先。墓があっても守れる人が減っていく。
だからいっそ、遺骨は一つにまとめちゃって、いくつか墓標を立てといて。
「どれでもお好みをお見立てください」ってのは、いかが!?
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