歴史

学校の歴史の授業は、大キライだったけど・・・。

2021年7月26日 (月)

親は諸白、子は清水

「強清水(こわしみず)」と称する湧き水が、日本各地にある。

中でも最も有名なのは、福島県の猪苗代湖と会津若松の中間にある“強清水”らしい。というのも、ネットで“強清水”の一語で検索するとほぼ、ここしか出てこないからである。

私が育った東京都清瀬市にも“強清水”がある、と言いたいが……「あった」と過去形にしなくてはならない。JR武蔵野線を建設するとき、惜しくも埋められてしまったのだ。私が物心ついた頃には既に武蔵野線の築堤が出来上がっていたから、実見も叶わなかった。

さて。この「強清水」。野良仕事へ行った親父が、毎晩赤い顔をして心持ち良さそうに帰ってくる。怪しんだ倅が親父の様子を窺っていると、仕事帰りに湧き水をさも美味そうに口にして、しかも一口、一口と酔っていくようだ。「すわ、コレに違ぇねえ!」と、倅が飲んでみれば、ただの水……

「んだがら、“親は諸白(もろはく=清酒のこと)、子は清水”っつうんだぞぃ」

会津でも清瀬でも同じオチになるのだが。

ちょっくら待ってくなんしょなぃ。ほだな駄洒落、ハナシすっとおもしぃげんちょも、何かどっか違うんでないのかいハァ。

つーわけで、無粋を承知で考察。

質の優れた湧き水であることは間違いない。その美味さで酔えるほど。そして、この泉は日照り続きでも滾々と湧き出し、清水は普段と変わらず満々と湛えられていたのだろう。

少雨に苦しんだ経験をもつ親父は、この泉の有り難さを身を以て知っていた。しかし、倅は、まだ……


日照り続きでも涸れない、強い泉。それが本来の「こわしみず」なのじゃないかなぁ。

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2020年9月22日 (火)

宮城谷昌光 三国志

「相変わらず小難しいな~、宮城谷先生(笑)」と、読み始めた

#宮城谷昌光

#三国志


とか云いながら、今日一日で、ほとんど一巻進んでしまった。

ちなみにまだ、曹操のお祖父ちゃんの曹騰がようやく大人になったところ。

Qokem4

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2012年2月21日 (火)

おっとととの、大臣(おとど)

おっとととの、大臣(おとど)
“その昔、守屋の大臣、聖徳太子と仏法を争いしとき、守屋の大臣、多くの仏像金像をこの難波堀江へ投げ込み、それが埋まり埋まって大坂の土地と相なった”……。

「御神酒徳利」の、お稲荷さんのセリフ。

久しぶりにこの「悪人列伝」を引っ張り出したら、初っ端が“蘇我馬子”。著者、海音寺潮五郎は、蘇我馬子の栄達に至る歴史を、丹念に述べる。
だから、まだちっとも“馬子さん”が、出てこない(笑)。

でも、これを読んでいると、物部の守屋さんは“大臣(おおおみ)”じゃなくて“大連(おおむらじ)”。しかも聖徳太子の一世代前のひと。
だから、本当のところは、守屋さんと聖徳太子さんが“仏法を争う”なんて、ありえないのだ。

でも、落語は落語、物語は物語。目くじら立てて時代考証したって、つまらない。

「事件の本質は何なのか」が、大事なんだ。

洋服ばっかりじゃなくて、たまにでいいから「着物」着て動くと、そういうことが……わかるかなぁ……わかんねぇだろうなぁ(笑)。♪シュビドゥバ〜♪

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2011年11月20日 (日)

宮内・熊野大社の大イチョウ

宮内・熊野大社の大イチョウ
見事な“黄葉”。
67年前、この地へ学童疎開をしていた、わが母、伯母をはじめ、江戸川区小松川四小の子供たちも、この“黄葉”を見上げていたのだなぁ……。

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2010年10月 6日 (水)

出雲ゆかりの師弟

約30年前。中学に上がったワタクシの担任は「尼子先生」だった。
見事な光頭だったから、当時たぶん50代……しかし、自らの今の状況を鑑みると……、ひょっとするとまだ40代だったかもしれない。

あまりいい印象はなかった。というのも、ワタクシを何かの研究材料に使ったからである。放課後に呼ばれて、マンツーマンで根掘り葉掘り訊かれた。貴重な放課後をつぶされたうえに、自分としては応答しづらい訊問であったのだろう。そんな時間が、中学1年のガキんちょに楽しいわけもなく、先生はもちろん、先生が担当した歴史の授業まで、嫌いになってしまった。


長年のわだかまりが解けたのは、それから約20年後。祖父が亡くなった時。
ワタクシのルーツが出雲にあって、ワタクシの名字の城跡があることを知ってからである。


「尼子」といえば、中国地方を毛利氏が席巻するまでの山陰の覇者。わが祖先は出雲の地侍で、尼子氏の下に仕えていたらしい。


尼子先生は、歴史の先生ゆえに、自ら名乗る名字にゆかりがあることに目を付けて、研究材料に、ワタクシをピックアップしたのに違いない。


だったら、そうと一言云ってくれればよかったのに……もしかすると、云ってくれてはいたかもしれないけど、当時のワタクシには全く伝わらなかったのだ。


もったいないことをしてくれたものである。歴史への興味が芽生えていたはずのワタクシが、歴史の面白さに気が付くのに、それから約20年かかっちゃった。


でも、先生が一方的に悪いわけでもない。「なぜワタクシを選んだか」という質問を盾に、ワタクシが徹底抗戦すればよかったのだ。ワタクシは、それも面倒で、逃げてばかりいた。


尼子先生、ご存命なら、もう80。今更だけど、歴史談義なんぞ、してみたい。

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2010年7月 6日 (火)

もし100年早く生まれていたら

ちょっとした思考実験。
実際のワタクシ、西暦1966年生まれ。これを100年前、1866年に置き換えてみる。

西暦1866年、我が国の慶応二年。ちょうど大河ドラマ「龍馬伝」が今、さしかかっている辺りかな。

2歳の時に「明治維新」、もの心がつきはじめる6歳の時「♪汽笛イッセイ新橋を〜♪」、鉄道開通。20〜30歳台、我が国日本は、日清・日露の対外戦争に明け暮れ…。40台半ばに差し掛かる今「1910年」。来年は明治天皇が崩御され、大正時代に入って行く……。

そんなふうに想像すると、別に現代、それほど進歩が早いというわけでもなさそうだ。

自分が生まれた頃にはプランすらなかった「鉄道網」という交通インフラが急速に全国に普及し、郵便・電信というメディアが整えられ、新聞というそれまでになかったマスコミが登場し……、世の中は大きく変わった、ように見える。

でもそれは、表面だけで……。人々の営み、性(さが)の根本は、あんまり変わらないみたい。

だから慌てるこたぁ、ない。マイペースで、好きなように、生きて行けばいいのだね!

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2010年6月 4日 (金)

「そうせい」

幕末の、長州・毛利の殿様は、家臣から報告・相談を受けると、決まって「ウム、そうせい!」と、すべてを任せてしまったそうな。

で、結果、どうなったか。
長州藩は、一時期、どん底に落ち込むのだが、それをバネにしたかの如く、次の時代の「支配者」に、見事返り咲いた。

わが現代。……乱世である。

そんな中、ワタクシの地元近くの選挙区選出、“カンちゃん”がとうとう“総理”になっちゃった。

聞けば、政治家二世でない首相はずいぶん久しぶり(トミー以来)だそうな。


世襲がいけないとも思わないし、今思い切り「仕分け」対象になっている“天下り”も、100%悪だとは思わない。ただ、こうやってたまに「門外漢」が活躍してくれないと、世の中は停滞して腐ってゆくだろう。

「若旦那」とは違う、政府の運営を期待したい。


でも、かつて、カン総理の政党から推薦をもらって、わが地元の市会議員になった高校の先輩が云っていた。「ああ見えて、カンちゃんやっぱり“政治家”だよ……!」、と。
しかも「長州」(宇部市)出身らしい(笑)。これは今日初めて知ったのだが。

こちらは一介の「無党派市民」。この夏の選挙は、是々非々で。

ただ、何も決まらない「捻れ国会」だけは、もう勘弁してほしい! 「二大政党がいい」なんていう繰り言は、多少政治に空白ができても困らない、ボンボンのセリフなんだろう。イギリスの人たちもやっと、これに気が付いたらしいしね。全会一致で賛成、なんて案件は、そうそうあるものじゃない。○か×か、お互いに凝り固まっている面々でタイマン張ったって、何も決まるわけがない。
「妥協の産物」とか「玉虫色の解決策」と云うと、どこか情けない雰囲気があるけれど、玉虫の翅の輝きの下に全てを隠してしまうのではなく、ぱっと見、気色の悪い玉虫の腹まで、曝け出すことができるか。

カン総理、かつて自らが大臣を務めた省庁の不祥事を糾明したことでも知られているけれど。


せめて辞める時には、ヒヨドリの話なんかで、ごまかさないでほしいなぁ。

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2010年1月22日 (金)

三本の矢

ある程度の歳の人なら、大概ご存じの、毛利元就のエピソード。

三人の息子に、矢を持たせ「これが折れるか?」と尋ねる。三人は苦もなくポキンポキンと折ってみせる。「では、これではどうじゃ」と、父・元就が取り出したのは、3本をからげた矢。これは容易に折れない。そこで元就、のたまった。「一本なら易々折れても、三本まとまったらそうは行くまい。じゃから、兄弟力を合わせ、毛利の家をもり立ててくれよ」と。

去る正月に帰省したとき、母が「大事な話がある」という。何かと思ったら、都営小平霊園の抽選に当たった、とのこと。

これが、フツーの、いわゆる一般的な墓ではなくて、お骨を持ってくと、職員が預かって、程なく廟内に合葬しちゃう、すなわち、ブンばらまいて散骨するという、そういう場所。
「いくらいくら払って手続きしたからね」という金額が、パンフレットの「基本料金」よりだいぶ高かったから、オプションの「墓誌」への名前彫り込みでも頼んできたのでしょう。

「たまには線香上げにこないと承知しないよ!」と云われたけれど……。
息子たちに負担をかけたくないという、いかにもわが母らしい思いやりなのでしょうm(__)m。

おかげさまで、好き勝手ばかりしている、ドラ息子です。


ところで、長屋の羅宇屋のじいちゃんのお骨は、結局どうなっちゃったのかな。

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2009年9月 6日 (日)

目黒ウォーキング

 今更ながら、お盆に歩いてきた「目黒」を書いておきましょう。
 今回のお盆の帰京で、目黒界隈をちょっと歩いてきました。
 まずは、目黒不動尊のすぐ近くにある「成就院」というお寺さん。

Nec_0103「噺」のネタにしようとずっと考えている、保科正之公。三代将軍家光公が、腹違いの弟、正之公の存在を初めて聞いたのが、ここ、目黒成就院と言われています。この秋、この場面を噺にしようと考えたので、何はなくともお参りしようと決めてきたのでした。写真は正之公の母、お静の方が、正之公の大願成就のお礼に奉納したという「お静地蔵」。とてもこぢんまりしたお寺で、住宅街の真ん中ということもあって、とても静かでありました。お地蔵様の後ろの看板に描かれているのは「タコ」。ここは別名「目黒の蛸薬師」といって、ご本尊の薬師如来様がタコの上に乗っている、という・・・。で、御利益が「イボ治療」「皮膚病治癒」で、イボが取れるという「お撫で石」というものを境内で売っています。Takoyakushi_3
ほかに「芸能向上」という御利益もあるらしくて、奉納する絵馬もあったのですが、予算の関係上それはまたの機会にして、あまり「お守り」の類は持たない私なのですが、タコの絵の附いている小さなお守りを授けてもらってきました。
 しかし、ちゃんと地図を持って行かなかったので、たどり着くまでに、お盆の東京の炎天下、1時間弱も無駄に歩いてしまいましたとさ。ふ〜・・・。


 さて、目黒といえば「さんま」(笑)。せっかく近くまで来たので、その「発祥の地」を探訪してみました。
 目黒のさんまに出てくる殿様のモデルは、諸説あるようですが、先ほど話題に出た三代将軍家光公がかなり有力候補のようです。成就院から30分弱歩いたところに「茶屋坂」という坂があります。今は全く住宅街のど真ん中になっていますが、当時は武蔵野そのままの風景。坂の中腹に湧き水と茶屋があり、鷹狩りが大の趣味だった家光公は、途々でしばしばこの茶屋に立ち寄り、主人の爺様を「じい、じい!」と呼んでたいへん愛顧していたとか。この茶屋で「じい」が自分の飯のおかずに焼いていたさんまを、家光公が無理強いして譲ってもらい食した、というのが、そもそものお話のようです。

Nec_0104

 これが、その湧き水があった、という記念碑。ここは小さな公園になっているのだが、その車止めに・・・



Nec_0105

 こんな絵が。はっきりしない写真で申し訳ないですが、これこそ「目黒のさんま」の図。




 この公園から、半端ではない急な上り坂になる。茶屋はこの辺にあったのかな?

Nec_0106

 今は単なる住宅街の坂道。でも、ここがひたすら荒野で、そこを将軍・家光公が「ハイヨ〜ッ!」と馬をとばして登ってきたと想像すると、なんだか楽しいですね。



 さてさて、坂を上りきると、目黒の駅より恵比寿が近い。炎天下、延々歩いて、恵比寿ガーデンプレイスへやってきたら・・・

Nec_0107

 う〜むむむ・・・降参じゃ!




Nec_0108

 プファ〜ッ!
 というわけで、美味い、美味〜いヱビス生ビールで喉を潤し、めでたし、めでたし。



 で、恵比寿駅のホームに立ったら、ここの「発車メロディー」って、「第三の男」なのね。ヱビスビールのCM曲。JRもなかなかイキなことをするもんです。

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2009年7月18日 (土)

「黄金の日々」と「花神」




コネタマ参加中: あなたのベストオブ大河ドラマといえば何?


 「ベスト」とゆわれてふたつはナンですが・・・。私としては甲乙付けがたい。
 戦国時代と幕末、ここはやっぱりドラマの宝庫。
 大河ドラマ初の「海外ロケ」を敢行した、昭和53(1978)年の「黄金の日々」。当時の市川染五郎さん(現在の松本幸四郎さん)の「ルソン助左衛門」、根津甚八さんの「石川五右衛門」、川谷拓三さんの「善住坊」の主役トリオを、戦国時代のヒーローたちが取り囲む、日本だけで収まらなかった壮大な「大河」。脇役も豪華で、昭和40(1965)年の「太閤記」で秀吉を演じた緒方拳さん・信長の高橋幸治さんが同じ役を再演したのも、両親たちは懐かしがっておりました。栗原小巻さんの「美緒」、美しかったなぁ! 「ア〜レ、キュイジ〜ヌ!」の鹿賀丈史さんの高山右近もいましたね。
 その前年昭和52(1977)年の「花神」。幕末の人物では地味な存在の「大村益次郎」が主人公。私はその前年「風と雲と虹と」あたりから大河ドラマを見始めたのですが、やはり幕末という時代の面白さ、そして若さに惹かれたのでしょう、「花神」はたいへん深く印象に残り、私の中では30年以上経っても幕末長州の人物はいまだに「花神」のキャストの顔になってしまいます。中村雅俊さんの高杉晋作、篠田三郎さんの吉田松陰etc. 、中村梅之助さん演じる村田蔵六→益二郎ともども、現在まで残っている写真になんとなく風貌が似ていたことも、物語が身近に感じられた理由のひとつかもしれません。

 学校にいた頃は歴史の授業が大嫌い。高校に進学した時、当時は歴史を選択しなくてよかったので、大喜びで「地理」だけで卒業して来ました。ところが、今は歴史が好きで、うちの蔵書の半分近くは歴史がらみの本。それは、多感な頃に「花神」「黄金の日々」を見て育ったからだろうと思うのです。年号や出来事を暗記する歴史なんかツマラナイ。でも、生き生きと人々が生きていたドラマ、そう見ると、歴史ってすごく面白い。
 数年前の三谷幸喜氏の「新選組!」のときに「かなり史実に反しているところがある」という批判があったけれど、わざわざそんなことを云って「つまらなく」しなくたっていいのになぁ(批判でなくて指摘ならかまわないけど)と感じたことがあります。どのみち、それで歴史に興味を持って、深入りをしてくる人たちは、様々な資料に触れて「あ、あれってフィクションだったのか」と気が付くのですし、ただ楽しんで終わっただけの人たちは「歴史学会」には何の影響ももたらさないでしょうしね。
 私はテレビを見なくなってずいぶん経つし、来年の大河「龍馬」もたぶん見ないだろうとは思うのですが、昨年の「篤姫」もかなり若い人たちに感銘をもたらしたようですし、「歴史っておもしろいよ!」ということを伝えてもらえるような、質の高いエンターテインメントにしていただきたいなぁと思う次第です。

 さまざまな変化が私たちを襲いつつある現在。歴史の人物たちの行動は、将来の見通し方のヒントを私たちに与えてくれます。だから、今こそ、この現在のキビシイ状況を見据えつつ、歴史と、今を楽しみましょ!

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