文化・芸術

2022年9月28日 (水)

お弟子さんができた!?

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アタシになんと、いきなり“お弟子さん”が4人も!?

今日9/28、福島県立視覚支援学校「芸術鑑賞会」、うつくしま芸人会にお声がけを賜りまして、お伺いしてまいりました。

根多帳

「権兵衛狸」ツイ輝

「じゅげむ─教科書バージョン」さいらくてい一門(小学部児童四名+とんぼ)

「寿限無」とんぼ

─仲入り─

♪わらじ音頭♪どんぐりころころ♪野球拳♪ おと丸

「牛ほめ」いさん

─おひらき─


そう、アタシの“お弟子さん”とは、視覚支援学校小学部の子どもたち。5人で一緒に舞台へ。今日のメインイベント、彼らの割ゼリフによる「じゅげむ」。アタシはお手伝いのナレーション。

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“4匹の虫たち”は、みんなしっかり稽古を積んできたようで、声の調子も間合いもリズムもVery Good! 打ち合わせの時に担任の先生が「20分以上かかってしまうかも」と心配なさっていたのも杞憂となり、彼らの出はけ込みでたぶん20分以内に収まったテンポの良さ(手引きとセッティングにあたる先生方の、動きの速さと的確さよ!)。アタシは真ん中に座って、ただ頂戴した台本を音読するのみ……。

“お弟子さん”が演技を終え客席に戻り、改めてアタシの「寿限無」。教科書バージョンの基礎・川端誠さんの絵本は素晴らしい作品なのだが、惜しいかな、終盤の言い立てがゴッソリ省略されてる。落語寿限無の面白さ・バカバカしさはココにこそあるとアタシは思うから、喉が張り裂けんばかりに「寿限無寿限無五劫のすり切れ~」をまくし立てる(意見には個人差があります)。

……「素晴らしかったです~!」というお褒めを、これまでの人生の最大値頂戴して、まだ明るいけれど、大好きなお酒を呑んでます(笑)。なによりアタシが楽しかった!!

長引くコロナ禍に自らの不調も重なり、昨今、落語へのモチベーションがダダ下がり(今年の池田も「不戦敗」)という体たらくでしたが……。この6月の札幌行き辺りから、ぼちぼち上向き加減になってきたようです。

ちょっとした大ネタの仕込みも始めたし。来年2月の広島チャリティー寄席へ出演表明もしたし。

今日の高座には、力強く背中を押してもらいました。皆様に感謝感激。

そして4匹の虫「せみ」「かなちょろ」「ばった」「かなぶん」よ。また会おう!

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2012年3月 9日 (金)

漫画と落語・4(終)

漫画と落語・4(終)
続き……。

今回のシリーズ、そもそもこの本がきっかけだった。
それで、ワタクシが何を云いたかったかと云えば……ご想像の通り「漫画と落語の類似点」。
・笑いが求められる
・でも、笑いだけではない
・一人でできる
・世の中の事情や自分の思いを、単純化して表現する
・お客さま(読者)を得て、はじめて「芸(芸術もしくは商売)」として成り立つ
・その表現は、先人が培ってきた約束事、ルールに負うところが大きい
etc.、etc.……。


しかし、一番の共通点は「漫画を描く人」「落語を演る人」に、色々出会ってきたけれど……(ワタクシは別として)真摯な人ばかりだ。


ヒトはみんな、もともと真摯な心を持っているのだと思う。
親に迷惑かけたくないから何としても一流国立大学に受かろうと思ったり、二重生活の家族双方を幸せのまま保ちたいと思ったり……。
ただ、真摯さも度が過ぎて、視野が狭くなると、おかしな方向へ向かってしまう。「窮鼠、猫を咬む」で一発打開がはかれるか。それを実現したのが、かの信長の「桶狭間」だが……、近ごろ見聞きする「逆転狙い」は、あまりにも浅く小粒過ぎて、哀れだ。

しかし、物事に、真摯に取り組み続けていれば、かならずそれは結実する。
初めには、思いもよらなかったようなカタチを取るかも知れないけど……。

落語にしても、漫画にしても、登場人物が一生懸命じゃなければおもしろくない。
でも、これって、落語や漫画に限らないか。どんな仕事も学業も、真摯に一生懸命取り組み続ければ、興味はますます増し、上達するから。

しかも、落語と漫画、定年はない。柔軟な感性があれば、プロでもアマでも、一生のライフワークとして、保ち続けられる生きがいになる。

一人でできる、人生表現。

そこが、一番の共通なのかな。

「完」!

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2011年7月 3日 (日)

本歌取り、または換骨奪胎

う〜む……。キンシュ勲章は、なかなか取れないなぁ。
今日のアルバイトがやけに激務だったから、ガマンできなかったのね。しかも朝から持病の通風発作の、ごくごく軽いのを起こして、右足親指付け根が腫れて痛いってのに……。「一番搾り」と「純米酒」買って帰って来ちゃった……。3日と保たないんじゃ、しょうがない。馬鹿、馬鹿!(但し、今朝から、胃の調子はまぁまぁ悪くないんだけど……)

まぁ、中年のオッサンの病気自慢は……それはそれとして。

昨夜「第一回・らくごのくに」に、半分スタッフ半分観客で参加してきました。

根多帳
 酒飲亭いさん「へっつい幽霊」
 光家平三「ねずみ」
 楽しく亭ツイ輝「粗忽長屋」
 みそ家笑遊「悋気の火の玉」
 中家すゞめ「幾代餅」

御来場のお客さまが「ツ離れ」していただいたうえに、噺の聴かせどころでしっかり笑っていただける、という……、とてもとても小さな会だけど、出演の皆さんにジェラシーを覚えてしまうような、今までにない「濃ゆい」席でした。

大入叶!
御来場のお客さまに感謝。
席亭いさん師匠、出演の皆さんに、喝采!

その中で今回、ワタクシのツボにはまったのは、平三くんの「ねずみ」。
古典落語って、あんなに壊しても、成り立つのですねぇ! 遊雀師匠の「初天神」の金坊ばりの「卯ノ吉」、松の幹を彫ってできた鼠だから「ミッキーマチュ」、そのミッキーが、鬼太郎の目玉オヤジのごとく、甚五郎の肩にちょこんと載ってしゃべる様子……。中でもワタクシが一番はまっちゃったのは、虎屋の虎がミッキーの桶の周りをグルルル、グルルルと回っているうちにすっかりとろけてしまうシーン。平三くんは知ってるかなぁ「ちびくろサンボ」という、絵本。アフリカの少年サンボが森へ出かけて、虎に襲われる。サンボが手近な木に登って逃げると、追い掛けてきた虎が「グルルル、グルルル」と木の周りをすごい勢いで廻りだす。そのうちに……、虎が足の方からだんだんとろけて、しまいにバターになってしまい、サンボはそれを壺に入れて持ち帰り、とても美味しいホットケーキを焼いて食べましたとさ、という、ごくごく他愛ないお話。ワタクシは子供の頃大好きで、何度それを読んでゲラゲラ笑ったか……。ただ、この絵本「人種差別だ!」と騒がれて、しばらく本屋
の店先から姿を消していた、という……。だから、ここでゲラゲラ笑っているのは、まぁ大体、ワタクシ位の世代でしょう。「ねずみ」では、それが某・仙台銘菓の由来噺になるばかりか「遊雀金坊」卯ノ吉のセリフが、ちゃんと伏線に張られている、という周到さ!

平三くんオリジナルではないにしても、ワタクシには目から鱗の一席でございました。


しかし、これを聴いて「落語は古典芸能なんだなぁ」とも思いましたよ。なぜって「下敷きになっているもとの作品」の知識があって、初めてわかって笑えるクスグリを、いくらでも入れられるんだもの。

これを、ワタクシのかつての商売、国語の専門用語で“古文”においては「本歌取り」“漢文”においては「換骨奪胎」と、申します。単なる「パクリ」ではなく、あくまでもとの作品を下敷きにして、違う世界を表現するというのは、古来、高等な技として、喜ばれていたのです。

今回の噺、プロの噺家さんのコピーかもしれないけど……あれだけ堂々と一席つとめられるのは、たいしたものです。しかし前期試験期間中だってのに、何やってたんだか(笑)。まったく、平三くん……、侮れません!

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2011年6月18日 (土)

筆記体

7年前に、塾の講師になって驚いたのは「いま、学校ではアルファベットの筆記体を教えない」というのである。

ワタクシが英語を学び始めた、約三十年前、筆記体は中一で、既に必修だった。
確かに、憶えるのは、煩わしい……しかし、一旦慣れてしまえば、ブロック体でチマチマ丸だの直線だのを書くよりも、格段にテストの答案を仕上げるスピードがアップする。当然、当時(多分、今でも)英語で高得点をゲットする、強力な武器だった。

ただ、ワタクシも今は英文なぞ書く機会がほとんどないから、結局、ブロック体と筆記体の中間の、半端な書体になってしまったけれど……。

何故、今時そんなことを思い出したかというと……。

今日、図書館で「新潮日本文学アルバム・内田百間」を借りてきたからである。

百間先生、夏目漱石門下。若い頃に漱石御大からもらった書簡、これが……見事な、草書。
そして百間先生の日記の書体も、草書に近い行書である。


……ん〜……読めない!


ワタクシ先日、ハガキを一本書いたのだが、チマチマ金釘流楷書、すなわちブロック体……。
もっとも、達筆な草書行書で書いたところで、送った先の人に読めないだろう。そればかりでなく、配達する郵便局の人にも、おそらく読めない……。

外国語を云々する前に、自らの「国語」を、なんとかしないといけないね……。

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2011年5月19日 (木)

そなえよ つねに

そなえよ つねに
一昨日の夕方、夕食の支度をしていた時。うちの同じ階のカツヤさんのご来訪をたまわった。

カツヤさんとは、ひょんなことから知り合った。一昨年6月の「元気寄席」がハネた晩だったと思う。「たらちね」の云いたての最中に、アタマの中が空白になってしまった、忘れもしない、タンドーオヤブン四十九日のこと。

近所で火事があったらしく、消防車がサイレンと鐘を鳴らして辺りを走り回っていた。バスだったかタクシーだったか記憶が曖昧だが、そうでなければまず使わない東寄り階段を登りきった4階外廊下、カツヤさん、タバコをくゆらせながら、火事の様子を眺めていたのである。


「こんばんは。火事ですねぇ」
「そうですねぇ……。ところで、こんな遅くまで、お仕事?」
「いえ、実は、ワタクシ落語をやってまして、その帰りなんです」
「へ〜! 落語なさるの。僕も大好きですよ」

……それから一時間近くも、話し込んでしまったっけ……。

それ以来カツヤさんは、ワタクシたちの寄席にしげしげとお運びくださるようになり、昨年4月の“演者3名各2席・都合6席”に“客席たった2人”という、とてつもない会にもお付き合いいただいたという……有り難い常連さんになってくださった。

この震災発生当初には、一緒に町内防災ボランティアを務め、集会所で同じ釜の飯を喰い、枕を並べて横になった仲にもなった。

そのカツヤさん、昨年「福島県文学賞」に応募、見事「エッセイ・ノンフィクション部門」で、奨励賞に輝いた。それで、一昨日は、作品の掲載された本を、ワタクシにくださったのである。

カツヤさんの作品の題名は「KBS45」。……AKB48ではない。カツヤさんが第一期生にあたる福島県ボーイスカウト第45、川俣支部の、スカウト当時の思い出を綴った作品である。

ワタクシはボーイスカウトに所属したことはない。しかし「ボーイスカウト的文化」とでも云おうか、その影響を大いに受けてきた。小中の頃に参加していた「ナチュラリスト」、高校の「生物部・地学部」、大学でサイクリング同好会、その延長にある大学連盟、そして、ネオライフ自治会やK&Kクラブマンズミーティング……。「ふくしま素人落語の会」も、例外でないかもしれない。

カツヤさん、最初は“KBS45”の中では、募集締切後に無理矢理入れてもらったこともあり、いわば“おミソ”的存在だったようだ。しかし、そんなカツヤさんに“隊付き”という身分を与え、いっぱしのスカウトに、そして作品冒頭で紹介される“極楽メンバー”に育てた“隊長”の導きの、すばらしいこと。

ボーイスカウトの標語「そなえよ つねに」。

その言葉が今、たいへん重い。
ヘラヘラ笑っていても、ワイワイ楽しんでいても、イザという事態への備えと度胸を忘れてはならない。

カツヤさん、今は町内会防災会の、恐れ多くも会長さんである。町内のみんなの安心・安全に、何をなせばいいのか、日々心を砕いてくださっている。
カツヤさんが幼少の頃に身につけたこと、隊長から受けた指導や、仲間との交流経験の成果を、今、ワタクシたちはありがたく享受しているのだ。

「そなえよ つねに」

この一言を、何かといえば「想定外」と宣って責任逃れをし勝ちな、おエライさん方に、ぶっつけてやりたい。

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2011年5月13日 (金)

スタジオジブリ・レイアウト展

好評につき、震災での閉館期間が延長になった、らしい。

ワタクシ、余り大きな声では云えないが、その余禄を頂戴することになる。

そこで、福島県立美術館・スタジオジブリ・レイアウト展を観に行こうと計画中の皆様へ、お願いです。
なるべくクルマで来ないでくださいm(__)m。県立美術館の駐車場は、ちょびっとしかありません! まだ図書館が休んでいるだけ、ずいぶんマシですが。

電車の駅も、バス停も、近くにあります。それで来たほうが、駐車場待ちより、余程時間がかかりませんよ。下手すると、クルマを停める場所より、駅やバス停のほうが近い場合も少なからず……。

ワタクシが福島に移ってきた最初の年、県立美術館で「スターウォーズ展」を開催してた。
夏休みに、弟夫妻がこちらへ遊びにくるというので、どこを案内しようか……ったって、未だ福島の右も左もわからない頃。とりあえず「スターウォーズ」へ行くことにしたけれど……直にクルマで行こう、なんて無謀なことはやりたくない。
結果、実行したのは……

①岡部の自宅から、クルマで飯坂温泉へ向かい、パルセ飯坂に駐車して、鯖湖湯で朝湯を満喫する。
②飯坂電車で美術館へ。スターウォーズはもちろん、常設展もじっくり鑑賞。
③美術館を出て、信夫山をハイキング。たっぷり汗をかきまくる。
④飯坂電車で飯坂へ戻り、パルセに近い八幡湯で汗を流してサッパリ!
⑤帰り道「いちい」に立ち寄り、飲み物とご馳走を買い出しして、家呑み。

自家用車なんて万能の移動手段じゃない、ってのは、記憶に新しいじゃないですか……。福島市が、この規模の地方都市として「公共交通インフラ」に恵まれていることに、皆さん気が付いてほしいなぁ。

もっと電車とバスを使いましょうよ。

「トトロの故郷」出身のワタクシからの、提案でした。

って……あ、そうか!
「ももりんバス」を、一台「猫バス」仕様にすればよかったか……! う〜ん、相変わらず、後知恵だなぁ……

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2010年1月29日 (金)

「ホームにて」と「智恵子抄」

「智恵子は、東京には本当の空がない、という」
有名な一節だ。


「そうか、なるほど」としみじみ感じたのは、福島に移住してしばらく経ってから、バスで帰省したとき。那須の高原から関東平野に下った瞬間。山並みがグンと遠くなり、パっと空が開けた。「あ、帰ってきた」と思うと同時に思い出したのが、智恵子抄の、かの一節…。ワタクシの心は、智恵子さんの思いと真逆の感激を覚えたのである(でも、これ、どうもリアルタイムでこのブログに書いたような記憶がなくもない。お暇があったら見てみて…)。

「ふるさと」って、何なんだろう。プラットホームの果てか、汽車の窓ガラスの果てか……。


北海道の、音威子府という小さな村に、縁があって、都合二ヵ月ばかり暮らしたことがある。北海道といえば、どこまでも広がるような畑や牧草地と、そしてその上の青空、というイメージかもしれないけれど、この音威子府村は、天塩川中流の小さな盆地。だから、空は、福島や二本松と同じように、四方を山に囲まれている。
世話になった親方が云っていたっけ。「内地の人はみんな、音威子府に来ると『帰ってきたような気がする』って云うんだ」と。
それを聞いたとき、判るような気もしなくはなかったけれど、半分他人事のような気がした。
それはそうだ。だって自分は、智恵子さんと“真逆”なんだもの。


でも、福島、なんか、落ち着くんだよね。ナンデダロ〜♪


思い返せば、ワタクシの「本当の空」は、住宅団地の“山”に囲まれた「空」だったんだ。

そして、ベランダから、富士山が綺麗に見えていた。


いま、うちのベランダに立てば、右手には吾妻小富士を臨む。目の前の地面に目をやれば、子供たちの遊び場。左手の霊山へと続く山は、その頃の団地の北側に茂っていた雑木林。ちょっと歩いて土手を越えれば、川の流れ。

まあよくぞ、幼きときの原風景にそっくりなところに来たもんだ。


この年末年始、JRが発売した「ふるさと行きの乗車券」は、残念ながらワタクシには使えない設定だったけど…。
気が付いたら、普段から「ふるさと」にドップリ浸かって暮らしてる。


福島、いいべした!

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2009年4月12日 (日)

“新作”にチャレンジだ。

 昨夕、5時から飲み始めてしまい、あっという間に撃沈したのだが、夜中の12時前にポッカリ目が覚めて、眠れなくなってしまった。本を読んでもダメ。ジョニ赤舐めてもダメ。煙草吸ってもダメ。本には集中できず、まだ酔っているし、煙草は定量を超えたし、全面的にお腹一杯状態。もう何も入らない。
 やむなく本棚を漁っていて、ふと思いついた。
「そうだ、前から考えていた“新作”のメモを作ろう!」
 入力する余地がなくて眠れないのだから、こういう時は出力だ。参考書をひっくり返し、自分の記憶を色々引っ張り出すこと3時間。明け方になってようやく眠りにつけた。
 落語を再開してたった半年。まだまだ噺の基礎も出来てないのに、それどころか着物の着こなしすら最悪な癖に、オリジナルの新作とは、それこそ無謀の極なのだが、やりたいと思ったことをすぐ実行に移せるのがアマチュアの気軽でいいところ。
 ところで、新作といっても、現代物ではない。落語を再開した時からず〜っと考えているのだが、江戸時代の、福島県の、ある偉人の噺をしたいのである。その名は、会津松平家初代の、保科正之(ほしな・まさゆき)公。江戸で生まれて、最後は会津に移った、という、おこがましくも云ってしまえば私の大先輩。福島に移住してきてわりと初めの頃、中村彰彦さんという作家の本で出会った。「華のお江戸」といえば、なんと云っても“元禄時代”であるが、ひとつ前の世代で、いわばその基礎を築いた人物である。
 ところが、この正之公、いたって地味な存在で、福島でもあまり知られていないようなのだ。歴史に詳しそうな何人かに話をしたけれど「へ〜、誰、それ?」という反応。会津と福島は別の藩だから、仕方がない面もあるけれど・・・、いかにももったいない。ところが、この正之公に、今、ちょっとした波が来ているのだ。正之公が最初に領した、信州高遠の町が中心になって「正之公を大河ドラマに!」という運動が起きている。もちろん会津にも、それに呼応した活動がある。署名運動も行われていて、昨夏、正之公の祀られている猪苗代の土津神社(はにつじんじゃ)に参拝したら、帳面が置いてあった。もちろん喜んで署名してきた。
 だから、だから、これ、今やっとかないと、ましてや大河ドラマに決まっちゃった後だったりすると、なんだか世間の流行を追っかけているように見えてしまうだろう。それは嫌なのだ。ほんの少しだけど、先走っておきたい。今年の大河ドラマは東北が舞台になっているから、来年は多分来ない。でも、近々来そうな気がしてしょうがない。ここのところの大河ドラマ、歴史上では地味な人が扱われているから・・・。
 そして、正之公がゴーサインを出してできた、大きなものが、今も東京に遺っている。それは「玉川上水」。私は、玉川上水経由で配水されてきた水を飲んで育った。この玉川上水の建設にゴーサインを出した時、正之公は、今の私と同じ歳、42歳だったのだ。これも「今やっておきたい」理由。
 しかし、メモを作っていて思ったが、なかなか道は険しそうだ。講談になら、すんなり持っていけるようなエピソードが一杯あるのだが、私には講談の経験が(演ることどころか観たことも)ない。だから、やっぱり落語にしか持っていけない。笑いの少ない(どころか、全くない)噺になるのは間違いないけど、それはそれでいい、お客様に、正之公の存在と事績のわずかでも伝えられれば。ただ、一番のネックは・・・「落ち、どうしよう!」
 落ちがなければ落語にならないもんなぁ。高座で「歴史の授業」やってもしょうがないし・・・。
 悩みはつきねど、なんとか年内には、昨夜手を付け始めた噺はまとめたい。
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 よ〜し、これで「有言実行」だ。創るぞ〜!

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2008年11月16日 (日)

落語再デビュー

 福島に移住してから、実はずっとやってみたいことがあった。それは「落語」。
 以前の回で書いたことだが、小学校高学年の時、図書館で落語の本に出合ってすっかりハマり、たまたま中学2年の時に学校に「落研」ができ、それから高校にかけて「落語研究部」に属していて、文化祭ではいつも高座に上がっていたのである。進学する高校を決めたのも、家から適当な距離で学力相応ということもあったが、最大の要因は、高校としては珍しい「落研」があった、ということ。順調に行けば、そのままプロに(弟子入りしたい師匠の候補も何人か考えていたくらい)・・・というほどの入れ込みよう。ところが悲しいことに高校の落研は、一級上の先輩一人、私一人という、廃部寸前の所帯(星野さん、元気かな?)。また、落研と同時に同じ文化部の生物部、さらに文化祭の時だけの特別サークル、SPTなる団体(スライドでアニメ的な作品を制作して発表していた)を掛け持ちし、興味が色々な方向へ拡散したあおりで「落語」へのモチベーションが下がってしまい、それっきりになってしまった。
 福島移住最初の年、2004年に、街中の「チェンバ大町」でミニFM局をやることになり、企画案のなかに「寄席番組」があった。私だけでなく、塾とFMのボスであるタンドー氏がかなりの落語好きなこと、放送業界で云う所の「完パケ番組」として、スタッフの休み時間にも使えることで話が進んだ。FM開局直前に「うつくしま芸人会」のテルサ寄席があって、観覧しに行った所が、師匠連の話芸のレベルの高いこと・・・。そこで、事務局のややまひろしさんに掛け合って、テルサ寄席の音源を提供していただき「ふくしま平成ラジオ寄席」として、約1年間、放送させていただいた。そんな縁もあり、毎年秋のテルサ寄席には、ささやかな差し入れを持参して楽屋を訪問するのが、私の年中行事になっていたのである。
 「芸人会に参加したいな〜」という思いは、最初の年からあった。しかし、なにせ塾講師と印刷所、「経験の少ない慣れない仕事」と「経験はあるが慣れない会社での仕事」をふたつ掛け持ちしていた上に、昨年は町内会長まで引き受けていたから、まさかそんな余裕などあるはずがなかった。
 今年になって仕事を1本に絞り、町内会長も3月で任期を終えたので、ようやく余裕が出来てきた。そこで、今年のテルサ寄席(今年から昼席になった)を観覧に行ったら、ややまさんに「ま〜ぜ〜て!」と云おうと心に決め、公演がハネたあとにその旨お伝えした。すると、今「ふくしま素人落語の会」というのがあって、そちらにまず参加して芸を見せてほしい、中心になって活動しているのが、遊印ショップ「みい工房」の川越さん(高座名・みそ家笑遊さん)だから、まずはそちらに行ってみたら、とのお言葉。「みい公房」さんは、私たちのFMが終わったあとのスペースで1年間お店をやっていた、という、不思議な縁。
 参加するとなると、高座名を決めないと仕方がない。実は1年ほど前から、決めたのとは別の名を用意はしてあったのだが、漢字の読み方の難しい名前で、どうしようか再び悩む。なんにしろ自分の身の上を織り込んだ名前にしたい。9月30日、通勤途上で思いついたのが「とんぼ」。これは、印刷物をつくるときに不可欠なもの。紙の端の印刷が切れないように大体3mm幅の「裁ち落とし」というのをこれでつけるところから、亭号は「裁落亭」。「とんぼ」は製品になる時に切り捨てられてしまうものなので、一般の人が目にすることは滅多にない。印刷製品となる「版面(はんづら)」がプロの噺家さんならば、自分はその外側にいるアマチュアである、というのは後で考えた理屈。数日過ぎて、ネットのニュースを見ていたら「とんぼ」という文字が躍っていて驚く。今シーズンで引退したオリックス・清原選手のテーマ曲で、引退試合に長渕剛さんが来て、スタンドでファンとともに大合唱をしたというのだ。野球はほとんど門外漢なので、清原選手のテーマが「とんぼ」とは全く知らなかった。というわけで、タイムリーなようで、全く関係のない名前である。決めるに当たって、プロの噺家さんで「とんぼ」を名乗っている方がいないか確認した所、上方に「桂都んぼ」さんと云う方がいらして、結構活躍されているとのこと。まぁこちらはアマチュアだし、亭号は違うし表記もひらがな(都んぼさんの前名はひらがな表記の「とんぼ」なのだが)だし、印刷業界の人がこの高座名を見ればニンマリしてくれるだろうし、もし万々が一クレームでもつくようなら、新しい名前を考えればいいや、と高をくくってこれに決めてしまった。
 笑遊さんとはトントン拍子に話が進み、12月の23日天皇誕生日、福島県文化センター視聴覚室で開催の「第8回・信夫の麓寄席」に出演できることになった。10月に入ってからは通勤途上で稽古に励む毎日。着物や高座扇一式は持っていなかったが、チェンバ第一期の同期生、新町の「ちんがら屋」富田さんに注文。さらには「素人落語の会」事務局の新井田さんという方が、毎年わが印刷所へ年賀状(写真入り)を注文してくれていて、先方はもちろんご存じないがこちらはよ〜く存じ上げている、というこれまた不思議な巡り合わせ。風が吹けば桶屋が儲かるの伝だが、そもそも「落語」で決めた進学先で出会った親友にタンドー氏を紹介され、タンドー氏の引きで福島に移住し、その関係でうつくしま芸人会さんとつながりが出来てふたたび落語に目覚め、チェンバ関係をはじめいろいろな方々にお世話になりながらの、この度の落語再デビューである。先日、東証株価が24年ぶりの安値を付けたと大騒ぎであったが、自分も巡りめぐって24年ぶりに「素人落語家」に戻るわけで、どうも何だか面白い運命ではありますな。
 ところで、今回の記事もそうだが、話をさせると「長い! くどい!」と今までさんざ不評を買っておりますので、高座での噺は簡潔を旨にしたいと思っております。また、最初飛ばしすぎてあとが続かなくなるのが私の悪い性分。素人とはいえお客様あっての噺家ですから精進はしますが、あまり肩に力が入りすぎないように気を付けて、永く続けられればと思います。どうぞよろしくおつきあいのほどを願っておきます。

アルバムをひっくり返したらこんなものが出てきました。

Kinmeitiku
1980年秋、当時中学2年生、学校の文化祭で「金明竹」を演じたときのわたくし。クラブ内では「真打格」だったので、生意気にも羽織を着ております。上座から口をとんがらかしているところは、おそらく前半、旦那の叱言のシーンか。演目は記憶にあるものの、高座名も出ばやしも何にしたか忘れてしまった。それにしても、なんと髪の豊かなこと・・・

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2008年8月 6日 (水)

冷房

うちにはエアコンがない。東京郊外のわが実家にもエアコンはない。福島にはエアコンのない家がまだちらほらあるが、郊外といえど東京都でエアコンの無い家は、今や天然記念物に値するかもしれない。
そもそも「日本の夏」は、東アジア、そして地球上でも有数の蒸し暑いものなのである。松尾芭蕉は江戸の熱帯夜が堪え難いがゆえに、奥の細道の旅に出た(のではないかと思われる…)。兼好法師は徒然草で「家は夏を旨とすべし(夏を基準にしてつくりなさい)」と云ったし、紫式部や清少納言は、そんな「風通しのいい屋敷」に住んでいたので、冬場は着物を十二枚も重ね着してしのいでいた。10円玉の裏の「平等院鳳凰堂」だって、襖や障子を総て外してしまえば、会津喜多方の「長床」と変わらない吹き曝しである。さらに云えば、かの「長床」だって、あれだけ冬の寒雪が厳しいところにもかかわらず、見事な吹き曝しなのである。
然るに、1980年頃から、日本の住居と公共交通は「エアコンありき」になってしまった。
住居について云えば、設計上ネックになる「水まわり」を狭い範囲に集中できる上、集合住宅に暮らしていると何かと気になる「上下左右の水音」をシャットアウトするのが容易になる。勢い、湿気抜きや風通しを二の次にした設計が罷り通り、しかも好評を博したわけだ。
日本で最初に窓の開かない通勤電車を入れたのは、北総線であった。当時は驚いたものだが、今ではJRの「走るンです」のおかげで、当たり前になった(最近のは少し開くようにしてあるが)。
列車に冷房がついていなかった頃は、窓の全開する車両がかなりあった。国鉄101,103,111,113,115系、キハ20系後期型などの通勤・近郊型、西武の旧501後期型〜101前期型、などなど。私が学生時代に、青春18きっぷで旅をしていた頃は、ローカル区間になると窓をスカっと全開して、おもむろにタバコをくゆらしつつ、車窓の風景を愛でたものである。これを楽しめない今の学生諸君が哀れだ。ただ、当時の列車のトイレは垂れ流しだったから、事前に進行方向前方にトイレが無いかのチェックを欠かせなかったが。
最近のマンション・アパートなどで、風通しを売り文句にうたうところも増えてきたが、風呂場、便所に台所の全てが窓に面しているのはほぼ皆無である。却ってエアコンが未だ「普通の家電品」でなかった頃、1970年代までに建てられた物件は、兼好法師の教えが生きている。だから、この資源高の中、集合住宅に住むなら、築年を経た、ボロい所に限る(笑)。
進化ばかりが進歩ではない。三歩あるいて二歩下がる、でも、トータルで一歩前進。
ご近所の炊事洗濯、廁、風呂などの水音、また、ほのかに石鹸の香などきこゆるもいとつきづきし。これでいいのだ!

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